朝の連載小説
くる こう もん

第四話「崩壊」


「あんた, ここは立ち入り禁止だよ」

振り向けば, そこには, 恐らくこのグラウンドの管理人かと思われる 中年男が立っていた. その男は, 牛乳瓶の底のような眼鏡の奥に猜疑心を光らせ, 森本(仮名)を覗きこんだ.

見たところ, 男の身の丈は森本(仮名)よりもひと回り小さかった. いざとなれば, 言い争うにせよ, ほかの方法にせよ, それほど恐れることはない相手である.
しかし, その時の森本(仮名)の身体には, 抗弁するために直立するだけの体力と機能はもはや残されていなかった.
森本(仮名)は, 下腹部を両手で押さえ, 腰をエビのように曲げ, 真っ青な顔色でぶるぶると震えながら, 立ちすくむのみであった.

「何の用!」

男の激しい口調と刺すような視線. 苦しみながらも弁解しようとする森本(仮名)のなかに, 突然, 怒りの炎が湧き起こった.

何故, 自分はこのような目に遭わなければならないのか. 自分は, 普通の小市民として暮らしてきた. 普通の大学に入り, 普通のバイトをし, 普通の暮らしをしてきたと思っている. 昨晩の食事だって, 別に食い合わせの悪いものは食べていない. 台所の残り物がお目出たくなりかけたのをつい口に入れてしまったような 記憶はないし, 勿論拾い食いだってしていない. 寝に入ったときも, 今朝起きたときさえ, 布団からおなかは出ていなかった. 風呂に浸かった時だって, ちゃんと五十まで数えて, 湯冷めしないように, すぐに身体をふいて, ちゃんと用意しておいた替えパンツに, すぐはき替えたのだ! 自分に何か落ち度があっただろうか? いいや, そんな筈はない. 自分にはこんな羽目におちいるべき正当な理由は無い...!
理不尽だ. 腹が痛い. 不条理だ. 洩れそうだ. これは暴力だ! おれはわるくない. 悪いのはこのオヤジだ.
俺はなんにも悪いことなんかしていない. 悪りいのはこの糞じじいだ! 一体なんで俺がこんな目にあわなきゃならねえんだ. ああ痛ぇ, こいつが, 管理者のくせしやがって, 便所のひとつも, つくっておかねえからだ, このクソジジイ, この馬鹿野郎, イタタタタ, おお, ああ, えええぃ, もう, 俺ぁ, 完全に, アタマぁきた!

「...ううっ, す, すいません...」

管理人に平身低頭で謝り, ようように這うようにして区民グラウンドの門を辞した森本(仮名)は, 体を折り曲げ, 半ばしゃがみこむような姿勢で, ふたたび公園のほうへと, まだ何百メートルもある残された道程をめざし, のろのろと, 進みはじめた.

尺取虫のように.
いや, 亀の歩みのように.
時計の短針の動きのように.

彼の血液, 神経はすべて下腹部に集結したかの如く, 反して五感と顔色, そして思考能力は次第に失われていった.
今や大腸は心臓の鼓動よりも力強く脈を打ち, 大地に杭打つ響きのようであった.
そこから湧きあがってくる震えは彼の全身を覆い, 髪を逆立て, 歯を打ち鳴らさせ, 足取りを狂わし,
そして, ついに彼の歩みを奪い去った.

そのとき彼は, 消え去ろうとする視力のわずかな残りで, 道のかなたに空のいろを感じ取った.
朦朧とした意識のなかで, わずかに顔を上げ, 前方を見やった.

「あ, あぁ...」

それは, この緑濃い森の木々のトンネルを抜けた彼方にある, 彼の希望, 彼の目的地, そして彼の安息の地たる

コンクリート製水洗式公衆便所

の数箇所設置を誇れる, 東京都立小金井公園の秋空のひろがりの青さであった.


森本(仮名)の大脳の働きは, 半ば喪われていた.
彼の論理的能力の消滅を, 誰も咎めることはできはしまい.
彼のなかに, どこからかささやくような声が聞こえてきた.
...「着いた」と.

...崩壊がはじまった.
彼は地に膝を突き, そしてくずれおちた.
音響が, 静かな武蔵野の森の一角を満たした. そして, 物質的というにはあまりにも, 液体的性質を色濃くそなえた熱い流れが, 彼の左下肢をつたってデニムのズボンのなかを落ちていった.


それは, 人間の体内温度,

すなわち摂氏 36.8 度に限りなく近い,

熱い,
流れであった.


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