狂える肛門 <author>森本 淳 morimoto@xantia.citroen.org <date>14 January 1999 <!-- $Id: g.sgml,v 1.2 2003/03/08 11:10:48 morimoto Exp $ --> <abstract> </abstract> <toc> <sect>「予感」 <p> ある, 秋の日. 森本は爽やかな初秋の並木のなか, 朝の小金井公園へと抜ける道を歩いていた. 時候は朝, 午前8時40分. 会社に向かう勤め人や登校中の高校生の流れも消え, 武蔵野のけやきの木々が静けさを取り戻しはじめた, そんな時間である. ... 森本は, 都内の大学に通う3年生である. いま彼は, アルバイト先の工場へと向かおうとしていた. 西武新宿線は花小金井駅を降り, やや交通量の多い道路を南に向かって渡り, この静かな並木道に入る. ここからバイト先までは小金井公園を抜けて10分ほど歩かねばならないのだが, 都内には珍しいほどの静けさに, 森本はアルバイト先に待ち受ける旋盤作業のことも忘れ, 心の安らぎを深めつつ, 軽やかに歩みをすすめるのであった. 駅前の雑踏をはなれ, 住宅街をやり過ごし, 武蔵野の濃い木々のあいだを歩く森本. 昼間でさえほの暗い切り通しのかなたに小金井公園の芝生の広がりがかすかに 見えてきた頃, 森本は, なぜか, 下腹部に鈍い痛みを覚えた. ...おや, 下痢かなあ. <sect>「経験」 <p> 森本は 幼時より電車を利用して登校していたため, いままでラッシュアワーにおけるいろいろな困難を数々と経験してきていた. 西武池袋線石神井公園駅-池袋駅間直通の急行電車における腹痛, 営団地下鉄有楽町線での下痢のいたみ... 急行電車は, 当然その定義からして, 無駄な途中駅での停車を許さない. つまり, そのなかでの下痢には, 十数分もの苦痛の時間を越えたあとにしか解決が有り得ないのだ. そして, 開放のときが訪れるまで, 車内空間は渇き切った冷たい都会の縮図と化す. <itemize> <item>誰も自分を助けてはくれない. <item>誰も自分を苦しみから解放してはくれない. </itemize> そして万が一, 自分の理性が三途の川を越えた時, さらに自分の肉体が限界から一歩踏みだした瞬間, 菊門は熱きほとばしりで満たされ, そして彼は全てを喪うだろう. 男としての誇りも, 人間としての尊厳も... 森本は我に返った. こんなことを考えている場合ではない. いち早く, この腹痛に対して, 何かの方策を講じねば. すくなくとも, この見苦しい己の姿を公道上に晒すのは堪えがたい. 増してや最悪の生理的事態に至ったときのことを考えるや... 森本はあたりを見回した. すると, 前方左手に見える柵に囲まれた空間, その入り口には, <bf>「○×△区-区民グランド」</bf> 彼は, 迫り来る腹痛を左手で押え, ぎこちない歩みで, 黒塗りの鉄の門のすき間から, そのグランドへと, 入っていった... <sect>「迷走」 <p> 森本は, 区民グランドの入口をくぐり, 広場へ抜ける森のなかの砂利道を, 黒いロングコートをひきずりつつ, ぎこちない足取りで駆けていた. 彼の眼差しは, 脇の茂み, 木の柵の裏, 標識の横などへと, そこかしこへと, 向かう. 「...どこか, どこでもいいから,しゃがめる場所を...」 下腹部のいたみは, 次第にその勢力を増し, 脈打つような轟きとなって彼の全身を満たし, 身振るいさせ, 足取りを奪い, そして今や, 心臓のパルスの高まりと一体化しようとしていた. 駆ける森本の左前方, 砂利道から少し森の方に分け行ったあたりに, 木造の小さな小屋が見えてきた. 恐らくグラウンドの補修にでも使われるのであろう, スコップや手押し車などが立てかけてある. 森本は, その朽ちかけたあずまやの裏手へと駆け込んだ. 果たしておれはここにしゃがんで用を足そうとしているのだろうか. 思わず森本は己に問うた. いくら森のなかとはいえ, 朝の光は, 武蔵野のクヌギや杉の葉裏を透かし, 容赦なく森本の姿を照らし出してしまうだろう. ...しかし彼には, もう判断の余地は残されていなかったのである. 周期的に頭のてっぺんから爪先へと駆け抜ける悪寒. 彼は立ち止まった. ひとたびしゃがみこんだならばそれが最後, もう彼には己の姿勢を取り直す余裕, わずかな身じろぎをする自由さえなくなってしまうのだ... 森本はしゃがみこんだ. まさにその時, 彼の体に, 氷の刃で刺し抜かれたようなショックが走った. 突然, 背後に何者かの気配を感じたのである. <bf>「もしもし!」</bf> 推何する背後の男の声に, 森本は, 自分に残されたすべての力を, 鋼のように括約筋に込め, 両手を握りしめ, 歯を食いしばって立ち上がった. <sect>「崩壊」 <p> <bf>「あんた, ここは立ち入り禁止だよ」</bf> 振り向けば, そこには, 恐らくこのグラウンドの管理人かと思われる 中年男が立っていた. その男は, 牛乳瓶の底のような眼鏡の奥に猜疑心を光らせ, 森本を覗きこんだ. 見たところ, 男の身の丈は森本よりもひと回り小さかった. いざとなれば, 言い争うにせよ, ほかの方法にせよ, それほど恐れることはない相手である. しかし, その時の森本の身体には, 抗弁するために直立するだけの体力と機能はもはや残されていなかった. 森本は, 下腹部を両手で押さえ, 腰をエビのように曲げ, 真っ青な顔色でぶるぶると震えながら, 立ちすくむのみであった. <bf>「何の用!」</bf> 男の激しい口調と刺すような視線. 苦しみながらも弁解しようとする森本のなかに, 突然, 怒りの炎が湧き起こった. <quote> 何故, 自分はこのような目に遭わなければならないのか. 自分は, 普通の小市民として暮らしてきた. 普通の大学に入り, 普通のバイトをし, 普通の暮らしをしてきたと思っている. 昨晩の食事だって, 別に食い合わせの悪いものは食べていない. 台所の残り物がお目出たくなりかけたのをつい口に入れてしまったような 記憶はないし, 勿論拾い食いだってしていない. 寝に入ったときも, 今朝起きたときさえ, 布団からおなかは出ていなかった. 風呂に浸かった時だって, ちゃんと五十まで数えて, 湯冷めしないように, すぐに身体をふいて, ちゃんと用意しておいた替えパンツに, すぐはき替えたのだ! </quote> <quote> <bf> 自分に何か落ち度があっただろうか? いいや, そんな筈はない. 自分にはこんな羽目におちいるべき正当な理由は無い...! 理不尽だ. 腹が痛い. 不条理だ. 洩れそうだ. これは暴力だ! おれはわるくない. 悪いのはこのオヤジだ. </bf> </quote> <quote> <bf> 俺はなんにも悪いことなんかしていない. 悪りいのはこの糞じじいだ! 一体なんで俺がこんな目にあわなきゃならねえんだ. ああ痛ぇ, こいつが, 管理者のくせしやがって, 便所のひとつも, つくっておかねえからだ, このクソジジイ, この馬鹿野郎, イタタタタ, おお, ああ, えええぃ, </bf> </quote> <quote> <bf> もう, 俺ぁ, 完全に, アタマぁきた! </bf> </quote> 「...ううっ, す, すいません...」 管理人に平身低頭で謝り, ようように這うようにして区民グラウンドの門を辞した森本は, 体を折り曲げ, 半ばしゃがみこむような姿勢で, ふたたび公園のほうへと, まだ何百メートルもある残された道程をめざし, のろのろと, 進みはじめた. <itemize> <item>尺取虫のように. <item>いや, 亀の歩みのように. <item>時計の短針の動きのように. </itemize> 彼の血液, 神経はすべて下腹部に集結したかの如く, 反して五感と顔色, そして思考能力は次第に失われていった. 今や大腸は心臓の鼓動よりも力強く脈を打ち, 大地に杭打つ響きのようであった. そこから湧きあがってくる震えは彼の全身を覆い, 髪を逆立て, 歯を打ち鳴らさせ, 足取りを狂わし, そして, ついに彼の歩みを奪い去った. そのとき彼は, 消え去ろうとする視力のわずかな残りで, 道のかなたに空のいろを感じ取った. 朦朧とした意識のなかで, わずかに顔を上げ, 前方を見やった. <bf>「あ, あぁ...」</bf> それは, この緑濃い森の木々のトンネルを抜けた彼方にある, 彼の希望, 彼の目的地, そして彼の安息の地たる <bf>コンクリート製水洗式公衆便所</bf> の数箇所設置を誇れる, 東京都立小金井公園の秋空のひろがりの青さであった. 森本の大脳の働きは, 半ば喪われていた. 彼の論理的能力の消滅を, 誰も咎めることはできはしまい. 彼のなかに, どこからかささやくような声が聞こえてきた. ...「着いた」と. ...崩壊がはじまった. 彼は地に膝を突き, そしてくずれおちた. 音響が, 静かな武蔵野の森の一角を満たした. そして, 物質的というにはあまりにも, 液体的性質を色濃くそなえた熱い流れが, 彼の左下肢をつたってデニムのズボンのなかを落ちていった. それは, 人間の体内温度, すなわち摂氏36.8度に限りなく近い, 熱い, 流れであった. <sect>「風雲」 <p> コンクリートの壁に囲まれた公衆便所の狭いコンパートメントのなかで, 森本はぼんやりと煙草を喫っていた. 彼は,洋風便座に腰を下ろしている. 横のドアには黒いロングコートが掛けられ, そして便器の周りには, 打ち棄てられたTシャツ, 靴下, ズボン, ハンカチなどが, あるがままの姿で転がっている. それらは, もはや衣服としての使命を終え, 今は単なる布の集合体として, そこに在るだけである. 否, 衣服としての使命だけではなかった. 本来, 靴下やTシャツ達には, 所有者の汚れをぬぐい落すという使い道は与えられていない筈である. しかも, その汚れとは, 筆者のような良識を兼ね備えた人間であれば口にするのもはばかられるような物質であった. 彼は, かつて彼の衣服であった布製品たちに, 痛恨の眼差しを向けた. <bf>「ティッシュさえ持っていれば...」</bf> ええい, 馬鹿馬鹿しい. 一寸して彼は思った. この便所に駆け込んできた時はすでにもう, 彼の下半身は, 拭くとか拭かないとかいう程度を越えた状態ではなかったか. そんな時, 十枚や二十枚のティッシュペーパーが何の助けになるというのか. 彼の脳裏に浮かんでは消えるいろいろな思いも, 彼を絶望から救い出してはくれなかった. ..だれか友達に助けに来てもらうか...近くに住んでる奴っていったら...ケイちゃんとトシ坊と...あと, アシを持ってる奴がいいわなあ. そうだ. ケイちゃんに替えのズボンとパンツを買ってきてもらって, そうすれば, とりあえずどっかまで動けるから... <sect>「模索」 <p> しかし, そのケイちゃんなる人物が, 替えパンツと替えズボンを気前良く差し出し, さらに毎週ワックスをかけ毎月3万円のローンを払っている日産シルビアQ'sでさっそうと登場してくれるとは, 到底思えなかった. しかも, 彼の車は土足禁止, いわゆる「土禁」である. 土禁の車が, いわんや「便禁」であると考えることに,さほど想像力はいらない. <bf>「そうだ, 自宅の母親に電話して助けに来てもらおう!」</bf> ...やっぱり駄目だ. 恐らく, 母親がここへの交通手段としてタクシーを用いることは必定, しかし小金井公園は広い. そのタクシーと自分は, 一体どうやってランデブーすればよいのだ. 今いる公衆便所は小金井公園のかなり奥まったところにある. 公園の入り口からここに走ってくるまでの道筋を, 若干方向音痴の気がある母親に, しかも電話でどうやって伝えればよいのか. また, うまく事がスタートし, タクシーが小金井公園までうまくやってこれたとしても, 母親が公園入口〜公園内私道〜駐車場入口〜公衆便所までの経路情報をタクシーの運転手に伝えるまでに, いったいどれほどの情報量減少とエントロピー増加を見越しておけばよいのだ. おまけに, やってくるタクシーを表で待ち受けようにも, 自分は, タクシーから見える場所にいつまでもたたずんでいる訳にはいかない. もう, おれは, まともに太陽の光を浴びていられる身体ではなくなってしまったのだ. 待てよ. おお, そうだ. 自分がいま居る公衆便所の近くには, 舗装されたロータリーがあったではないか. おまけにこのロータリー, 隣に駐車場があることも手伝って, 街道からも入りやすい. ここだ. ここを待ち合わせ場所にすれば! ...駄目だ. この大便所には, 唯一つの窓さえない. タクシーが到着したとしても, その姿は見えず, そしてその音さえ聞こえず, クラクションでも鳴らしてもらわない限り, 自分には何の行動も取れないだろう. <quote> 彼は思い浮かべた. 昼の光のなか, 公園のロータリーにタクシーが進入し, 到着合図のクラクションをいつまでも鳴らしている. 停車禁止のロータリー. わたしの居場所がわからない限り止まることができないタクシー. いつまでもロータリーをぐるぐると回るタクシー. 後席でおろおろするばかりの母. 回転走行の横Gに耐えながら苦り切った表情を浮かべる運転手. 何事が起ったのかと集まってくるひとびと. </quote> <quote> そして, そのなかを下半身まるだしに近い格好で走り抜けなければならない己の姿... </quote> 「いや, こんなことではだめだ!」自分自身の力で, この地獄から這いあがらなければ! 不覚.... 森本は強く頭を振って, 他人の力にすがろうとする自分の弱さを追い払った. まず冷静になろう. 森本は, まず自分の持ち物を調べ, それを使っていったい何ができるのかを, 模索しはじめた. <sect>「検討」 <p> 森本は自分の役に立たなくなったズボン, そして便所のドアにかけてあるシャツとロングコートのポケットをまさぐり, なかに入っていたものを水洗式便器の蓋の上に並べていった. 「これだけか...」 彼はひとりごちた. 彼の前に並べられたものは, ジッポのライター, 自転車の鍵, テレフォンカード, そして, 852円しか入っていない財布のみであった. ぼんやりとそれらのアイテムを眺める森本の頭の中で, あるひとつの考えが次第に形を取りはじめた. それは, かつて彼が噂に聞いたり新聞で読んだりしたのも知れない, ある種類の性犯罪者のステレオタイプであった. ...とある街, 人通りの少ない夜道. 家路を急ぐ女子学生の前に突如として立ちはだかり, 奇声を上げ, そして素肌に直接はおった黒いマントを大きく広げる哀れな男の姿...そのすがたは, 大江健三郎「性的人間」の主人公の末路か, はたまた喜国雅彦のマンガのアナロジィなのか. 生まれたままの格好だった森本は素早く立ち上がると, 無傷のシャツに腕を通し, 黒いロングコートを音立てて羽織った. 未だ湿り気と温もりの残れる靴は, 彼の素足に, かすかに「ぺちゃり」という感触を伝えてくる. 「何も, 何も考えるな!」 森本は自分に言い聞かせた. 周りの人間がどう思おうと, どんな不審な眼差しを向けようとも, 自分さえそれを意識しなければ, 他人は己にとって存在しないにも等しいのだ. 森本はロングコートの前を合わせるボタンを, かつてこれ以上きちんとしたことがなかった程に入念にかけ, 大便所の外に通ずるドアの前に立った. 彼は目を閉じた. 口を真一文字に閉じ, 拳を握り締め, 息を落ち着かせようとした. 彼の脳裏には, スタンリー・クーブリック監督「2001年宇宙の旅」のハイライトシーン, 母船に戻るため宇宙服なしで真空の宇宙空間に飛び出そうとするボウマン船長の悲痛な面持ちが浮かんでは消え, そしてそれは彼自身の表情と重なった. ...こうしていても何にもならない! シーザー大帝曰く, ルビコン河を渡る時が来たのだ. 森本は便所のドアを開け, 裸体の上に羽織ったロングコートの前をしっかりと合わせ, 外へと踏み出した. <sect>「脱出」 <p> 公衆便所の外には, 爽やかな朝の風景がひろがっていた. ジョギングに勤しむひとびと, 仔犬を散歩させる老人. 仲間集う若人, そして ボール持て遊べる こどもたち. 森本は, 悪臭漂う便所の出口から一歩踏み出そうとしたまま, しかしどうしてもそれ以上外に進めないのだった. 下半身素っ裸の上に羽織ったロングコートの前を, 合わせる両手に力が篭る. ...なにくそ! まさに今朝の彼の行動のキーワードであったその卑語を頭に浮かべ, 彼はゆっくり, 一歩ずつ, あるきだした. <itemize> <item>小股に, 少しずつ. <item>裾を合わせ, 慎重に. <item>実直に. しっかりと. </itemize> しかし, 何かか彼の頭の中で警鐘を鳴らしつづけていたのだった. 何かがおかしい. それに気付いたのは, トレパン姿で競歩するオバさんたちと近距離で行き違った時であった. 彼女らの視線は, 彼の足元に釘付けになっていたのである. <bf>「あっ! しまった! 毛ずねが丸出しだ!」</bf> パンツとズボンを汚染してしまい, ハンカチとTシャツと靴下をも, 己の尻の清掃に失ってしまった彼である. 当然, 腿や下脚部やくるぶしにまとわれるべき服飾品は無い. 靴だって, 決して無傷ではないのだ. ただ股間さえ隠れればいい, 大事な一物さえ人様の眼に触れなければよい, ただそれのみを考えていたがゆえの, 過ち. いま, 彼のもくろみにおける重大な過ちが白天の基に晒されようとしていた. 彼はもはや, 冷静に歩をすすめることができなかった. しばらくして彼は立ち止まり...そして, 一目散に再びトイレへと駆け込んだのであった. <sect>「工夫」 <p> 再び大便所に舞い戻り, ドアをロックした彼は, 物も言わずに打ち捨てられたズボンを取り上げ, その汚染箇所を調べた. しばし考えた彼は, 先ほどチェックしたアイテムのひとつ, ジッポのライターを取り出し, ズボンの膝の部分の縫い目にその炎を当てた. しばし経ち, 縫い目が焦げてきたころを見計らい, さらにいま一つの持ち物, 自転車の鍵をそこにあてがい, 糸をほどきにかかった... ...暫くして, ズボンを膝下で切断した, 2本の布製の筒が出来上がった. 賢明な読者なら最早お気付きであろう. 彼がその朝穿いていたデニムのズボンは縫製が頑丈で, ちょっとやそっとのことでは切断することが出来ない. ましてや, 人間の便に徹底的に茶色く汚染されたズボンである. とても糸切り歯など使う気にはなれないというものだ. そこで彼は考えた. 猿でさえ, 畜生の分際でありながら, 高いところの物を採るには道具を使うというではないか. 自分だって, 知恵を使う余地はある. ははは, しかし, 頑丈なズボンを焼き切るという, ライターにかような使いみちがあるとは, よもやお釈迦さまだって知る由はあんめい. 彼は何やらぶつぶつと独り言をいいながら, その2本の布の筒を脚に通していった. ズボンの先端部分は, それほど濁流の被害を甘んじなかったので, 外側からでは変色を察知することはかなわない. 筒の先を太股のほうにまで上げると, それは固定された. ロングコートを降ろしてみると, 一見したところ普通のズボンを穿いているようにしか見えない. ちょっと裾がはだけたところで, ちょっと変わったスパッツかというところだ. いや, こいつぁ, お釈迦さまでも気がつくめぇ. こころの嬉しさを隠しきれないのだろうか, 同じようなせりふを二度吐く森本であった. <sect>「落下」 <p> 子供たちを学校に送り出し, 夫を会社へと見送った女性たちは, 笑顔をトレーニングウェアに包み, ジョギングコースを駆け去ってゆく. 就学前の子供たちが, その小さな手に何か玩具を握りしめ笑い声をあげている. 平和な初秋の都立小金井公園のメイン・ファサードを, 森本は, 黒いロング・コートの前をきつく合わせ, 両手をポケットに深く突っ込み, ゆっくりと歩みを進めていた. もう十月だというのに, 森本の額には汗ばみが感じられる. いま彼は, 自分のコスチュームにおける重大な過失を感じていたのである. 彼がいま両足に装着している布の筒, つまり自分のズボンを膝下から切断して作成したレッグ・ウォーマー様の物体は, 彼の太股に当たる部分までそれをたくし上げることによって, 支えられている. つまり, 筒の内径と腿の直径との一致点における, 布と人体との摩擦力に負うていることになる. 発案そのものは良いものであった. しかし, ひとたび人間が活動を開始し, 歩行を始めた後では, 脚の各部に位置する筋肉はその鋼性と寸法を時々刻々と変え, そして腿の肉の直径ですら定数では表わすことが出来ないのだ. 事実を述べることにしよう. 彼の自作デニムズボン・レッグウォーマーは, 重力の法則にしたがい, 次第に下方へとずり落ちつつある. そして, いくら歩幅を狭くし, 歩みをゆっくりとさせようとも, その落下を止めることができないのだ. 大便所で座りながら考案したこのデニムズボン・レッグウォーマー構想は失敗に終わろうとしているのか, と森本は考えた. あれは単なる机上, いや便器上での空想にしか過ぎなかったのか. しかし, すでに賽は投げられてしまった. あの便所を後にしてもはや数分経ったいま, もはや引き返すことはできない. もし引き返したとしても, またあの泥沼に陥り, そして独り無駄に時間を費すのみである. ここまで来た以上, 前進あるのみだ. しかし, デニムズボン・レッグウォーマーがゆるやかな落下を続けているのも事実である. そして彼は両手をロング・コートのポケットに突っ込み, ポケットの奥でレッグウォーマーの布の上端を掴み, これ以上の落下を防いでいるのである. ...不意の秋風が, 公園の舗道に舞い散った枯れ葉たちを踊らせる. その時, 彼は下半身に吹き込んでくる空気を感じた. ふと下方を見やった彼は, あっと息を呑んだ. コートのポケットに突っ込んだ両手, ポケットの裏地を通してレッグウォーマーを落ちないようにつかみあげている腕には, いつしか力が入っており, それは自然とコートの前の合わせ目を広げる方向に働いていた. 彼の股間はいまや, 何ひとつ遮るものなく, 爽やかな朝の公園のなかに開陳されつつあったのである. <sect>「再出発」 <p> また, 森本は北の街道に向かう道をあるいている. こんどこそ、股間を隠す体勢は万全のはずだ. 今度こそ, 失敗は許されない. これ以上, 市民の憩いの地である公共の公園敷地内を妙な格好で徘徊することはできない. これが最後のチャンスだ. その思いを厳しく胸と体, そしてポケットの奥の穴を通して素足と股間を隠すベトナムズボン・レックウォーマーをきつく握り締め持ち上げる両手に込め, 森本は再び小金井公園北口のゲートを通り過ごした. 案ずるより産むは易し. 北の街道に出るまですれ違った通行人は3名, しかし混乱やトラブルの予兆もなくやり過ごすことができた. その内容はご老人おひとり, そして主婦らしき女性ふたり. しかし前回の失敗から何かを学ぶことができたのか, いまでは森本は, まったく普段と変わらない表情のまま, 彼らとすれ違うことができる. 普段のようには歩けないこの体, いつもなら数分であるいてゆける北の街道まで, 森本は優に十数分を費やし, やっと到達することができた. しかしここからが問題だ. なんとかしてタクシーを拾わなければならない. どこかに, 安全に身を隠せる場所はないだろうか. この奇妙な体, そしておそらく奇妙な臭いの男が, 空車のタクシーがやってくるまでのひとときを, なんとかやりすごせる場所はないだろうか. <sect>「待機」 <p> 見つけた! このマンションの正面, この螺旋状の階段の下なら, まださほど迷惑にもならず, かといってそれほど人目にもつかず, しかも街道を見通せるから, 走ってくるタクシーの監視にも問題はない. 問題はマンションの居住者が出てきたときにどう言い訳を行うかだが, まあ文法通り水道の検針とでも言い逃れておけばよかろう. いかにも水道局の者とは見難い風体ではあるが, あるいはガスの検針とでも言い通せば, 何やら不穏なその臭いも必然性を持ったものとしての視座が生まれるに違いない, いやそんなことはどうでもいい, とにかく, 空車のタクシーが, 現れるのを, ひたすら, 待った. 通りすぎる車を眺めつつ, 通行人から何気なく姿を隠しつつ, 待つこと十数分. クリーム色の, 年季の入った, 旧型FRマツダ・カペラのタクシーが視界に見えてきた. そして、「空車」の標識も. おお, 神様. 握り締めたこぶしに, ぐっと力が入る. あせらず, あわてず, しかし急いで, ふたたび街道にいでて, そのタクシーを止めた. <sect>「巡航」 <p> さいわいというか, そのタクシーは個人タクシーでは無いようであった. 森本個人は, どちらかといえば個人タクシーのほうを常に採択する. 個人タクシーのほうが経験値深く, 運転や自動車そのものに対しても慎重かつ安全にことを運び, 無論顧客とのやりとりもスムーズかつ気持ちが良いからである. しかし今日はこちらも普通の客ではない. 異様な風体の, しかも異様な香りを振りまく怪しい乗客なのである. 自分の持ち車で営業を行っている個人タクシーに, この任を負わせるには, あまりに気の毒な気がした. <bf>「...(あっ!)」</bf> 森本の恐れていた現象が, 常に現れてきたようだ. <bf>臭い。</bf> 万全というにはあまりにも叶わぬ便所での緊急処置は, タクシーという密室内部の空気の循環においては, はなはだ無力だったと, 結論つけざるを得ない. 森本は慌てて後部座席の窓を全開にし, 煙草を取り出し, すぱすぱ喫いだした. どうも運転手は煙草の臭いが好きではないようで, 時折咳をしているが, まことに申し訳ない. 一般社会における悪臭のベスト2, 煙草の煙と大便の香り, いままだ我慢できるのは前者のほうであろう. あなただって自分の管轄下の車内において後者の臭いを嗅ぎたくはないだろう. 私も意味なく立て続けにチェーン・スモークはきつい, だんだん喉が痛くなってきて目にも涙がたまってきた, しかし, いまこれをやめることはできないのだ. わかってほしい. 練馬区石神井台に入った. 家はもうすぐだ. <sect>「安息」 <p> 自宅の前にタクシーが滑り込むや否や, 森本は運転手に「お金とってきます」と言い置き, 自宅のベルを鳴らした. ベルを鳴らした. 鳴らした. <quote> 誰も出てこない. </quote> <quote> 森本の自宅の玄関は, 階段を上がったところにそのドアがある. </quote> <quote> しかし何の動きも見えない. </quote> 鳴らした. ベルを鳴らした. <bf>「淳! どうしたの!」</bf> いきなり上方でドアが開き驚愕の表情で顔を出した母親, 「いいからあのタクシー五千円いま金がな五千持ってき払わとにかく五千円」 「どうしたの! 怪我はどうなの! 大丈夫なの!」 「<bf>いいから五千円!</bf>」 <quote> もはや股間はどうでもいい. </quote> <quote> 森本は, </quote> <quote> 全裸の上に羽織ったコートをもはや押さえようともせず, </quote> <quote> 大きなストライドで </quote> <quote> 自宅の玄関への階段を </quote> <quote> 二段またぎに </quote> <quote> 駆けのぼった. </quote> <quote> 静かな住宅街の </quote> <quote> その一軒の白い家の </quote> <quote> その二階にある玄関へと伸びる階段に </quote> <quote> 黒いコートが大きくひらめき, </quote> <quote> 生まれたままの姿の若者が飛び出し, </quote> <quote> 次の瞬間, </quote> <quote> 建物のなかへと </quote> <quote> 駆け込んでいった. </quote> <sect>登場人物 <p> <descrip> <tag>母親</tag> 工場にバイトに行った息子が妙に早い時間に帰ってきた。 タクシーで帰ってきた。大変にあせっている。様子が尋常でない。 窓から見れば、<bf>風体も尋常でない</bf>。 てっきりプレス機か何かで大怪我をしたのだと思ったそうだ。 <tag>タクシーの運転手</tag> 釣りの計算を一回間違え、 しかも去り際に「またお願いします」と意味不明のことを言って走っていったそうだ。 きっと、何か見てはいけないものを見てしまったのだろう。 <tag>森本</tag> ゆったりと風呂に浸かり、旅の汚れを洗い落とし、 そのあと服を風呂の流し場で手もみ洗いを行った。 すっかり痛ましい姿となった<bf>ベトナムズボン・レッグウォーマー</bf>については、 <bf>知恵と勇気と希望の象徴</bf>として末永く取っておきたいという意向を出したものの、 一笑に付され、それはポリ袋に詰められ、次の燃えるゴミの日に、 捨てられていったという。 </descrip> - 了 - </article>